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大丈夫。 あなたを、死なせたりなんかしない。 ティーメイカー episode.3 ハーブティー ひどい雨だ。 夏がやっと終わるか終わらないかくらいの時期なのに、風は冷たく気温は低い。 遠藤愛里はそんな中を抱えた荷物を濡らさないように歩いていた。 スーパーのビニール袋の中には野菜やパンなどが詰め込まれている。 (どうしても今日じゃないとだめだったのかなあ……この量……) 出掛けに貰ってきた買い物メモを見て心の中で愚痴る。 そうしつつも買い忘れがないか必死で見直している自分もいて、小さく溜息をついた。 傘を差しているので片手でしか荷物が持てず、左手がだんだん痺れてきた。 ふと足元の水たまりを避けた拍子に、誰かにぶつかった。 「あっ、ごめんなさいっ」 「いえ、こちらこそ……」 その人、というか自分と同じくらいの少女は俯いたまま言った。 傘を持ってないな、とアイリが気がついたとき、少女の身体がぐらりと傾いだ。 「えっ……」 そうして水たまりにばしゃん、と倒れた。 アイリは驚いて立ち竦む。 でもそれは一瞬で、すぐに荷物を地面に置いて抱き起こした。 「ど、どうしたの!? 大丈夫!?」 大丈夫なはずはないのに、それしか訊けない。 顔が真っ青だ。寒いせいだけではないらしい。 とりあえず目についた軒先にどうにか連れて行って少女を座らせ、携帯電話を取り出した。 「もしもし、ハルキ? 大変なの、今言う場所にすぐ来て!」 あのとき、出会えたのがあなたでよかった。 今でも本気でそう思う。 須上陽希が電話を受けて飛んでいくと、そこには顔を真っ青にして震えている少女と、気が動転しているらしいアイリが待っていた。 「どうしたんだよ、いきなり……」 「さっきこの子とぶつかっちゃって、そしたら倒れちゃって、よく見たら真っ青だし具合悪そうで、だからあたし、……」 「わかった。わかったから落ち着け。お前がそんなんじゃ余計不安にさせるばっかだから」 なるべく優しくそう言って、ハルキは少女を見た。 年は自分やアイリと同じくらいだろうか。近所でよく見かける私立高校の制服を着ていた。荷物は持っていないようだ。 「……立てますか?」 少女は弾かれたようにハルキを見たが、すぐに俯いて頷いた。 「うち、すぐそこだからよければ休んでって下さい」 「ここでしばらく休めば、大丈夫ですから……」 「そんなわけないじゃんっ、そんな青い顔して! 死んじゃったらどうするの!?」 アイリが怒鳴るように言った。 確かに彼女の顔の青さも震え方も尋常ではない。 「ここで凍死でもしたいってんなら、ほっときますけど。あいつもああ言ってるし、とりあえず立って」 そう言ってハルキは強引に少女の腕を掴んだ。 途端にがくん、と重くなった。 少女は気を失っていた。 「えっ、なに、どうしたの!?」 「気失ったらしい。とりあえず連れて帰るぞ。お前あれ持ってこいよ」 ハルキは少女を背負いながら、道路に置かれたままのアイリの荷物を顎で指した。 「あ、忘れてた!」 よっぽど動揺してんな、とハルキは背中がじっとり冷たくなっていくのを感じながら思った。 同時に、アイリがこんなに過剰反応するこの少女にも何かある、と思わずにはいられなかった。 遠藤愛里(えんどう・あいり)と須上陽希(すがみ・はるき)。 彼らを人は、ティーメイカーと呼んだ。 “紅茶仕立人”――一種の心理療法のようなもので、些細なことからもつれてしまった人間関係や、人生に疲れた人を、おいしい紅茶でもてなすのだ。 普段はホームページやメールを通して依頼を受け出向いていくのだが、今回は少し事情が違った。 街中で偶然出会ったひとりの少女。 この少女の一件から、二人の立場は大きく変わっていくことになる。 マンションに着くと、少女をアイリの部屋に寝かせた。 普段人が泊まることのないこの家に、二人の以外のベッドはないのだ。 「ハルキごめんね、濡れたでしょ?」 「それは全然いーけど。あの子もできれば着替えさしてやった方がいいよな」 「うん。なんとかしてみる」 「頼むな。俺も着替えてくる」 ハルキが自室に引っ込むと、アイリは気を失ったままの少女に向き直った。 直感が、この人を放っておいてはいけない、そう告げていた。 普通ならここまでしない。 でも彼女は『普通』ではなかった。 こんなに震えて、凍えて、何かに怯えている。 (お客さん、だと思った方がいいのかも……) タオルで少女の髪を拭き、制服のボタンを外しながらぼんやりと考えた。 仕事柄、ひとりで解決するには少し重たい悩みを抱えた人にたくさん会ってきた。 経験がそうしたのかはわからないが、アイリはなんとなく苦しんでいる人を見抜けるようになっていた。 彼女は直接依頼をしてきたわけではないけれど、明らかに何かを抱えている。 しかもとてつもなく大きな「何か」を。 カッターシャツを脱がせて、自分のパジャマを着せる。 なるべく丁寧に、と思ってもやり慣れないことだ。どうも乱雑になってしまう。 それでも彼女は全く目を覚まさなかった。 濡れたタオルと服を持って、リビングに向かう。 すでに着替えたハルキが、ティーポットとカップを用意していた。 「お、終わったか。目覚ました?」 「全然。あたし気失った人の扱い方なんて全然わかんないから、けっこう乱暴にやっちゃったんだけど、それでも起きなかった。よっぽどどっか悪いのかなあ」 「かもな。一応、医者呼んどいた」 「あ、ありがとう。そだね、その方がいいよね」 そこまで言ってバスルームへ向かい、濡れた服を洗濯籠に入れる。 ふと何かが落ちて、それを拾った。 (生徒手帳?) 他にポケットに何か入っていないか調べて、再びリビングに戻った。 「ハルキ、これポケットに入ってた」 「生徒手帳か、それなら身元もわかるな」 「幸村楓乃(ゆきむら・かの)……17歳。やっぱ同い年だ。高校2年だって」 「住所は?」 「えーっとね、遠くじゃないけど近くでもないぐらい」 「微妙だなー。ま、あの高校ならそんなもんか。つか学校行ってねーのかな……荷物なかったんだよな?」 「うん。傘も差してなくて」 「よっぽどわけありだろうな」 「やっぱ、そう思う?」 「ああ。それにお前がそこまで気にかけてるから、何かあるんじゃねーかって思って」 さらりと言われたハルキの言葉に、アイリは驚いた。 「何か」あるかもしれない人がわかる、なんて自惚れかもしれないと思っていたのに。 そのとき生徒手帳に挟まっていたものが落ちた。 「なんか落ちたぞ」 ハルキに言われてアイリは屈んでそれを拾おうとした。 その手が止まった。 固まってしまったアイリを、ハルキが心配そうに覗き込む。 「どーした?」 床に落ちたものを見て、ハルキも動きを止めた。 実際に見たことはなくても、何かは知っている。 そこに落ちたもの。 それは。 「これって、赤ちゃん……?」 「だ、よな……?」 落ちたのは一枚の写真。 ほとんど黒くて、何が写っているかよく見なければわからない。 真ん中のひときわ黒が濃い部分。 そこに写っているのは、どんなに小さくてもひとつの命だ。 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。 先程ハルキが呼んだ医者だ。 二人は顔を見合わせて、医者を迎えた。 とても遠くから声がする。 ……と思うと、その声は徐々に近くなる。 ああ、自分が現実に近づいているんだと否応なしに気付かされた。 私はどこにいるんだろう。 もしかしてあの家に連れ戻された? 目を開けたらまたあの現実が待っている? だったらこのまま眠ったままでいいのに。 あそこにはもう、戻りたくない。 そう思っているのに、意識はどんどんはっきりしてきて、楓乃はついに目を開けた。 (……どこ……?) 知らない天井だ。 ゆっくりと見回してみても、見覚えのない部屋。 雨の中で倒れたと思ったのに、温かい布団の中に居る。 わけがわからずぼうっとしていると、部屋のドアが控えめに開いた。 「あ、気がついた!?」 その人は部屋に入ってくるなりベッドに寄ってきて、嬉しそうに顔を覗き込んでいる。 ぼんやりしている楓乃を尻目に、目の前の彼女は喋りだした。 「よかったー。お医者さんはしばらく眠れば心配ないって言ってたけど、目の前で倒れたんだし心配だよねー。とにかく目開けてくれてほんとよかったー」 知らない子だ。 でも何故だか自分がこうして目を覚ましたことをとても喜んでくれている。悪い人ではないのだろう。 「あの、私、どうして……」 「商店街のとこであたしぶつかっちゃって。そしたら倒れちゃってね、とりあえずうちに連れてきたんだけど……覚えてないかな?」 「全然……」 そこで初めて制服を着ていないことに気づいた。 長袖の薄いパジャマ。 知り合いでもなんでもない自分を、ここまで介抱してくれるなんて。 何だか嬉しくて涙が出た。 「ど、どうしたの!? まだどっか悪い!?」 「違うの、そうじゃなくて……」 「じゃなくて?」 「ありがとう」 泣きながら言うと、目の前の少女はにぱっと笑った。 「いえいえ。あ、あたし遠藤愛里。あなたは? ……って知ってるんだけど。幸村楓乃ちゃん、でしょ?」 「え?」 「ごめんね、見ちゃった。生徒手帳」 「あ……」 「大丈夫、赤ちゃんもあなたも元気だって。身体冷やすとよくないんだって、お医者さんが言ってたよ」 「何から何までありがとう。この子は、絶対に守らないといけないの」 腹部にそっと手をあてる。 ここに、あの人の子どもがいる。 そう思うと、不思議と力が湧いてくる。 「ね、しばらくは安静にしてた方がいいって言うから、落ち着くまでうちにいなよ」 「でも……」 「気にしないで。あたし親と住んでるとかじゃないし。同居人がひとりいるけど、絶対反対しないから」 楓乃は首を傾げた。 親と住んでいない? 自分と変わらないくらいの年の女の子が? 「立てる? とりあえずリビングで話聞かせて」 「話?」 「だってなんか、訳ありなんでしょ?」 なぜわかるんだろう。 でも肝心な部分には触れず、あえてそっと訊いてくれている。 あそこでぶつかったのも何かの縁かもしれない。 楓乃は唇を引き結んで頷いた。 リビングに行くと、ふんわりといい匂いがした。 テーブルの上にはお菓子が用意されていて、涼しい容貌の少年が紅茶を淹れている。倒れる直前に見たような気がしないでもない顔。 「具合は?」 突然聞かれて驚く。 「あ、ありがとう……。もう大丈夫」 「そ。俺、須上陽希。アイリの同居人。ハルキでいーよ」 「同居人って、あなただったんだ……」 「聞いてた? まあ、仕事仲間っつーか、そんな感じ」 「仕事?」 「そのうちわかるよ。とりあえず、座って」 頷いて、空いているソファに座った。 パソコンの前に座っていたアイリが戻ってきて、隣に座った。 「これ、返しとくね」 見ると青い、小さな生徒手帳だった。 「ありがとう」 なんだか今日は、ありがとうを繰り返してばかりだ。それも会ったばかりの人に。 ハルキが淹れたての紅茶を丁寧に前に置いてくれた。カップやポットを扱う彼の仕草は、何と言うか無駄がなくて優雅だ。 「はい紅茶。……って、飲んでも平気?」 「うん、少しなら」 言ってカップを持ち上げる。いい匂いだが、普通の紅茶とは少し違うような。 「ハーブティー?」 「さっきね、ネットで妊娠さんのこと少し調べたの。そうしたらカフェインはあんまり良くないけど、紅茶飲むならこっちの方がいいみたいだったから」 「何から何までありがとう。ねえ、どうしてそこまでしてくれるの? 私と、今日会ったばっかりなのに」 「うーん……。なんでって言われると困っちゃうんだけど……。何となく、ほっとけなかったの。それじゃ、理由になんないかな?」 「こいつのそういう勘、なんでか当たるんだ。まあ取って食ったりしないから、好きなだけここにいればいいし」 「あはは、そこまでは思ってないけど」 久しぶりに笑った気がした。 なんだかこの二人は不思議だ。話をしていると自然と落ち着く。 薄い赤色のハーブティーを一口飲んで、楓乃は意を決して話し出した。 「もう知ってるから言っちゃうけど、私、妊娠してるの。高校に入ってからつきあいだした人の子供なんだけど……。言ったら、俺の子だって証拠あるの? って言われて、それから連絡も取れなくなっちゃって」 「相手……も、高校生?」 「ううん。もっと年上。家庭教師してくれてた人。それで、私は産みたいと思ったからママに相談したの。ママは驚いてたけど、私がそうしたいならって言ってくれた。問題は、パパ」 「反対されたの?」 「もうこれ以上ないってぐらい怒って、叩かれた。話も聞いてもらえなくて、ただ、出てけって……」 「それで雨の中ひとりで歩いてたんだ……」 そう、そうだった。 妊娠してる、そう言った瞬間殴られた。 相手が家庭教師をしていた男だと説明すると、そいつは得意先の跡取り息子だ、そんなことがバレたらどうする、会社を潰す気かと言われた。やはり、娘のことより会社が大事なのだ。 「出てけって言われて反射的に飛び出してきちゃったから、行くあてもなくて。だから本当に、ここまでしてくれてありがとう」 改めてお礼を言った。 妊娠しているなんて言った自分を蔑むでもなく、ただ真剣に話を聞いてくれている。 「楓乃ちゃんは、パパさんと仲直りするつもりはないの?」 「一応あるよ。産みたいけど、ひとりじゃ無理だし……」 「気がすすまない?」 「すっごく。うちのパパ、仕事人間だから。私やママより、会社の方が大事なのよ。私が小さい頃は優しかったけど、今は会社を大きくすることばっかり考えてる」 「会社って……もしかして、楓乃ちゃんのパパって社長さんとか?」 楓乃はこくりと頷く。 「わー! お嬢様なんだー」 「そんなことないよ。うちにあるのはお金だけだもの」 父親は仕事で、母親は習い事やら買い物やらで家にいないことが多かった。 有り余るほどのお金と物を与えてもらったけれど、それを嬉しいと思ったことはない。 クリスマスや誕生日はプレゼントだけ。家族とケーキを食べたなんて言う友達が羨ましかった。 「……家族だって、個人の集まりだからな。うまくいかないことくらいあるって」 それまで黙っていたハルキが突然口を開いた。 なんだか含みのある言い方だったので、楓乃は気になっていることを聞いた。 「そういえば、ハルキもアイリも親と一緒には住んでないよね」 「ウチは両親、離婚してるから。母親はここの近くに住んでるからよく会うし、生活費もほとんど出してもらってる」 「「そうだったんだ……」」 楓乃とアイリの相槌がかぶった。 え、と楓乃は目を見開く。 ハルキがアイリに目配せをして、アイリもそれに目で返した。ハルキが話を続ける。 「父親はどこで何してるか知らない。母親は知ってるかもしれないけど、小学生の俺と母親置いてどっか行った父親には俺が正直いい感情持ってないから、言わないだけと思う。幸村のとこは? 両親仲いい?」 「うーん……悪くはない……かな。お互い顔合わす時間もあんまりないみたいだから、いい悪いとか以前の問題な気がする」 「なるほど」 そこまで言うと、ハルキは紅茶のおかわりを淹れに席を立った。 まずいこと聞いちゃったかな、と楓乃が沈んでいると、アイリが明るく聞いてきた。 「ねえねえ、今何ヶ月?」 「6週目だよ。2ヶ月。一番流産しやすいときなんだって」 「じゃあ気をつけなきゃだね。いるってわかるの?」 「まだわかんない。でも写真にもはっきり写ってるし、こうやってお腹に手当ててるとなんとなく……がんばらなきゃって気になるんだ」 「不思議だね」 「うん、すっごく不思議」 にこにこと笑い合う。 こうして穏やかに話せる相手に出会えるなんて、ほんの数時間前までは思ってもいなかったのに。 もう一杯ずつハーブティーを飲んで、夕飯も食べさせてもらって、楓乃はゆっくりと眠りに落ちた。 楓乃が寝たのを確認すると、アイリとハルキはリビングでテーブルを挟んで向かい合って座った。 「……燐花さん、離婚してたなんて知らなかったよ……」 「ほんとごめん。あんな形で言うことになるなんて……」 ハルキは改めて謝った。 二人ともうなだれている。 ハルキの父親と燐花が離婚していたことは、アイリも知らなかったのだ。 楓乃に話したとき咄嗟に問い詰めようとしたアイリを目で制した。彼女の前では言うな、と。 彼女とハルキの両親の離婚は直接関係がないし、何より楓乃に余計な気を遣わせたくなかった。 「ハルキと燐花さんが、ハルキのお父さんの話をしないのが逆に不自然だったからなんかあるんだろうなとは思ってたけど……どうして言ってくれなかったの?」 「言えなかった。お前のこと考えたら、言えるわけないだろ……」 ハルキはずっと俯いている。 「どうして? ハルキの家の事情とあたしは関係ないじゃない!」 「関係あるよ! お前、俺と会う前までどんな生活してたか忘れたわけじゃないだろ!?」 「当たり前でしょ! 忘れられるわけない!」 声を荒げて、そこではっと気付いた。 「まさかハルキ……全部知ってて……」 「言えるわけないだろ……。産まれたときから施設にいたお前に、今更うちの事情話したって思い出させるだけだと思った。だから言えなかった」 ハルキの声が震えている。 アイリはもう、これ以上ハルキを責められなかった。 自分の事情をすべて知った上で、自分と住むことを了解し、自分の傷に触れないようにいつも注意を払ってくれていたのだ。 「ごめん、ハルキ……ごめんね……。辛い思いさせて、ごめん」 「俺の方こそ、隠し事ばっかしてて悪い」 お互いに謝るしかできなかった。 一緒に暮らすようになってもう二年が経つ。 ハルキにとって、アイリの生い立ちを知っていることをアイリに知られることは、この生活の終わりを意味する。 それは、二年前に燐花と約束していたことだった。 終わりが近づいていることをアイリにはまだ言えない。 隠し事をしていることを謝りながら、またひとつ隠し事をする。 隠される方と隠す方、どちらが辛いのか。 アイリとハルキの中で、この夜から少しずつ何かが変わり始めた。 「もう、寝るか。明日から幸村のことどうにかしねーとな」 無理矢理笑顔を作ってハルキが言った。 その笑顔は今まで見た中で一番、痛々しかった。 ←Back |